今年はうるう年。
2月29日まで、1日得した気持ちになるが、寒さはまだまだ厳しい。
とある地方では、26年ぶりの寒さとか。
木々の芽は膨らみ、春を待ち遠しいと待っているような。

さて、なかなか明るい話題がない。
【餓死】という言葉を、平成になり聞くとは思ってもいなかった。
親が食事を与えず、子供が餓死をしたという報道はあったが、これは生活できないという問題ではなく、親の身勝手さで起こったものだ。
ところが、昨今は収入が途絶え生活ができなかったという報道が目立つ。
廃棄処分の食物が世界一というこの国で(食品基準の高さ)何が起こっているのだろうか。

埼玉では、親子3人が。
札幌では、40代の女性が病死をし、知的障害がある妹は餓死。
水道やガスが止められ、部屋には食べ物もなく、お金もわずかであったと。
何とも想像を絶するとしか言いようがない。

民生委員も市でも、本人の要求がない限り生活保護の登録も民生人が介入することもできないのだという。
【法律】という垣根は、人情とかお節介とか昔の良き慣習さえも奪ってしまう。
人との付き合いもなく、家族も親族も隣近所も希薄な付き合いとなった昨今、このような問題は今後あとを絶たないのだろう。
個人情報保護法という法律ができてから久しいが、企業だけではなく個人と個人でも対応することが難しくなってきているように思う。

昔でいえば、となり近所のお節介おじさん・おばさんという存在があり、威厳のあった親があり、持つものがもたらざる者におすそ分けをする行為などは当たり前のように行われていた。
昨今は【余計なことはしない】という法律でもあるかのように
【見てみないふりをする】
【仲良しに見えても、その友がいない時には批判】
【与えてもらえば、嫉妬と妬み】
【与えなければ、なにもしてくれない】
となり、まあまあ時代の変化は、ゆがんだ日本人を育ててしまったようだ。

【先日は夫がお世話になりました】
【いつもいつも頂いてばかりでありがとうございます】
【出来の悪い娘で、お母さんにもご苦労をお掛けして】
私など料理もできずに嫁に行ったので母は何時でも【何もできない娘で…】と嫁ぎ先のご両親に言葉をかけていたのを鮮明に覚えている。
今は、我が子は素晴らしいとでも思っているのか、なかなか自分の子供が多くの人のお世話により暮らしていける、ということを理解できていない親たちが多くなった。
その親が子供を育てれば、同様に自己の保身しかない。
そしてまたその子が同じ道を歩む。
みな、自分がいかにすばらしいんだよと家族で慰めあっているような。

家族観だけでの幸せは、世の中の見方を指導することもできず、自らが育てた子供の本質をも知ろうとしないために起こることだろうか。
【こんな息子が、こんな娘が、多くの人により育てていただいている】という意識を持てるか持てないかにより、人の成長は大きく異なるのだろう。
会社と言う組織のなかで、マニュアル通りに物事をすることは長けていても、人間としての成長がなければ、人として生まれた意義がない。

【助けてください】と言えない社会。
【我が家庭だけ】と閉鎖的な家族。
【お節介を迷惑と考える】人々。
【我が家庭を保守するためには、他人に批判の目を向ける】親子。

論理的に、そして人の心の通った対応能力はいかに育つのか。
団塊世代の私でも、昔、親から教えてもらった数々の事が、今の時代にどう役立てるべきか悩む。

年金問題・少子化問題・未来の子供に手厚い補助金・消費税問題・医療・介護問題・政治の問題・経済の問題・いまだ復興と言われている災害などなど、立ち向かわなければならないことは山ほどだ。
人は生まれ出て死することは決められていることだが、この国は今何をすべきかと考えると、人間の教育が一番なのかもしれないと思うこの頃だ。

有名店のランチやスイートには、まあ…なんていうことか順番待ちになるほど多くの女性で溢れている。
そんな中で生活保護も受けずに【餓死】という報道を見るにつけ、日本は貧しい国々と同じだな…と思ってしまうのは私だけだろうか。

日本国の三大義務は【勤労・納税・子供に教育を受けさせること】
三大権利は【生存権・教育を受ける権利・参政権】
考えさせられる義務・権利だ。

日本国憲法第3章 – Wikipedia
覗いてみるのも悪くない。

そして今の私にできることは、勤労と納税の義務を果たすことだろうかと思う。

投稿メンバー

江本ヒロミHiromi Emoto
神奈川県出身
いつまでもあると思うな親と金。
心も大きく体も大きいが病気は一切無し。心身ともに健康。